我が家の系流

我が父 故嘉保の調べでは、源氏の流れで有るようだとのことでした、 しかし 昨年、平家一族を調べている、学者仲間という、川崎市にお住まいの 長野さんという方が、平家一族の大きな系図をもって現れました、 それによると、われらは下総の介をした千葉家の始祖である平良文の六代目 家基が始めて川崎を名乗ったそうです、 良文は桓武天皇の曾孫にあたり 平高望王の5男で 坂東兵士の始祖であるそうです。 川崎家基は、源平の戦いにおいて源氏側戦士として武勲をたて、 相模に所領を頂ました、そして三代目重国も華々しく、武勲を立て、 千葉県に所領をいただきました、 

1247年北条と三浦一族と戦った時、三浦家に見方した、川崎重国は、 敗北し18人の家来を引き連れて北へと逃れ、五戸まで来ました、 一緒にきた、鹿内家の方々は 青森と下北へと別れて北上し、 わが先祖様は、五戸より4里東にある切谷内へと、のがれていきました。 当時は何にもなく、家来と力を合わせ頑張ったようですが、食い物がなくなると 千葉へ残してきた家来へ”米送れ” と手紙を出したようです。 逃れて来たとき背中に背負って持ってきたのが、子安地蔵尊、 いまだに我が家の守り神様

昔は切谷内に 奥行き24軒 幅18軒の家の一番奥の床の間に置かれており、 金剛杖も有ったそうです、 4代前の党首は酒が好きで、浅虫に南部やを切谷内 の大工を総動員して建てたそうです、 しかしその跡継ぎである、我が祖父は 一切酒もタバコもやらない人で、旅館業が嫌いですので、それを売って、五戸へ 帰ってきました、 浅虫へ行くとき、後見させるために、弟へ家を任せていきました。 しかし我が祖父へ跡継ぎが決まったため、その弟は家をたたみ六戸の中堤へ移動 していまい、小さなお堂へと移りました、 その後父嘉保が、これでは小さいということで 3軒四方のお堂を建立して今はそこに居られます。

今と始祖の時代をつなぐものは、子安様より有りません、 元禄時代に我が菩提寺である、専念寺が火災のため焼失し、それ以前 の過去帳がありません、ですからその時代には 俗称切谷内の七衛門 というよびなで有りました、 それからかぞえて私は19代目です

浅虫から戻ってきた、祖父は庭が好きで、ついに2町歩にわたるがけを利用した 大きな庭を造りました、 斜面すべてに庭師を入れ、大きな池を作り、本当に昔は すごいものでした、今は、幾度となく洪水にみまわれ、大雨に流され土留め工事をしたにも かかわらず、瀕死の状態です、がけ崩れのため、半分は通行止めとなっています。 家の周りは何とか維持しておりますが、昔に比べようもありません

最近わかってきたことを 別室でご紹介します

川ア家の由来についてわかったこと